長者塚(ちょうじゃづか)
伝説の地(飯高地区公崎)
昔、飯高村公崎(こうざき)の真々田(ままだ)というところに、秋山将監(しょうかん)という長者が住んでいた。長者には、おいと、という十八歳になる一人娘がいた。
おいとは気立てがやさしく、村一番の器量良(きりょうよ)しで、村人たちから、秋山小町と呼ばれてたいそうかわいがられていた。
小町は、機織(はたおり)がただ一つの楽しみで、黄金の機織機を使い、わざわざ京都から師匠を呼んで習っていた。
小町は年ごろなので、将監のところに婿(むこ)にしてほしいという若者が、毎日のように詰めかけていた。
ある日、小町は祝言の時のためにと、みごとな金襴緞子綾錦(きんらんどんすあやにしき)の着物を織り上げた。
それを見た長者は、娘の婿には、隣り村の大金持ち、大野の息子をもらおうと考えた。
しかし、小町には、思いを寄せる同じ村の百姓のせがれ、小川清助という二十一歳になる幼なじみの若者がいた。
長者が、大野の息子を婿にしようと言うと小町はたいそう悲しんで、大切にしていた黄金の機織機を壊し、機織を止めてしまった。
怒った長者は、競馬に勝った者を婿にしようと言い出した。
大野の息子は、浩蔵と言い、武勇(ぶゆう)にたけ、見るからに偉丈夫(いじょうぶ)そうな二十三歳の若者で、競馬がたいへん得意だった。
小町は、とても清助に勝ち目がないと悩み苦しんでいたが、とうとうその決戦の日となってしまった。
婿選びの競馬とあって、この一戦をひと目見ようと、近郷近在(きんごうきんざい)からたくさん人が集まり、競馬場は黒山のような人だかりである。
浩蔵は、いつも乗り慣れた青黒のつわものに乗り、勇んで出て行った。
小町は、清助がどうか勝つようにとの願いを込めて、自分の飼っていた栗毛の愛馬を貸してやった。
いよいよ決戦。
合図の太鼓で、二頭の馬はさっと飛び出した。清助の乗った栗毛馬は、中ごろまで、少し引き離されていたが、決勝点近くになると、ぐんぐん迫り、ついに、青黒馬を追い越してしまった。
見物の村人たちは、
「栗毛よ―」
「青黒よ―」
とひいきの名を口々に叫んで大騒ぎである。決勝点前では、獅子舞(ししま)いも出て、太鼓や笛で囃(はや)したてている。
『これで清助が勝った』
と思い、小町は胸をなでおろした。
次の瞬間である。
決勝点のすぐ前で、獅子舞に驚いた栗毛馬は、柵(さく)の外へ飛び出し、脚を折り、どっと倒れた。
青黒馬の浩蔵の勝ち。
小町は驚き、気が狂わんばかりにさじきを飛び降り、一目散(いちもくさん)にかけ出した。
倒れた栗毛馬と落馬した清助は、小町の祈りもむなしく、血みどろのまま、息を引きとってしまった。
そばでは、小町が栗毛のたて髪をなでながら
「ああ、情けなや、畜生(ちくしょう)も法華経(ほっけきょう)の功徳(くどく)によれば、成仏(じょうぶつ)できるというが、このありさまは・・・・・・・・・」
と泣き叫んでいる。
「何んともむごいことだろう。神も仏もあったものではない」
と村人たちは、口々に叫んで帰って行った。清助は家に引き取られ、栗毛馬の死骸(しがい)は、村人たちによって、手厚く葬(ほうむ)られた。この地の字を“御栗毛”(みくりげ)と呼んでいる。
後に残された小町は、介抱されて家に帰ったものの、それからと言うものは、もだえ苦しみ、食事ものどを通らぬ毎日である。
ついに、寝込むようになり、村人たちに見守られながら、静かに息を引き取り、果かない生涯を終えた。
その死顔は、遠く幼い頃、清助と遊んだなつかしい日々を思い出しているかのように、やすらいでいたという。
長者は、娘の願いも聞き入れず、自分勝手な欲を通そうとして、かわいい一人娘を死なせてしまった。
せめてもの罪滅(つみほろ)ぼしにと、小町のなきがらと、壊れた黄金の機織機を埋め、塚をつくって菩提(ぼだい)を弔(とむら)ってやった。
やがて、長者は村をはなれ、どこへ行ったか誰も知らない。 その後、この塚のそばを通ると不吉(ふきつ)なことが起こると言い伝えられ、獅子舞いですら通らないということだ。
競馬が行われた跡は、“馬場”(ばば)という地名で今に伝えられる。
原話 ようかいちばの昔話と伝説、八日市場市史編さん室編
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