浅間神社と長貴さま(せんげんじんじゃとちょうきさま)
伝説の地(野田地区野手)
野手の浅間神社は、大同二年(807)竜亀山円長寺の開祖、長貴法印の創建になるものだといわれている。長貴法印は、越後の国長福寺で修行をし、下総の国野手の地にやってきた。
当時の野手村は住家もまばらで、土地も荒れていたため、僧は村人が幸せに暮らせるようにと庵(いおり)をつくり、法を説き、布教につとめた。村人は神仏を崇敬(すうけい)して、野手村発展の基礎を築き、近隣の村々からもまた、長貴法印の教えを慕って移り住む者が多かった。
法印は、常に人心和合は信仰をおいてほかにないとの考えから、神仏の調和を説いた。人々の信心はますます厚くなった。そして村人は、子孫の守護神、幼児の守り本尊として富士山の浅間大権現を、野手村に分祀(ぶんし)しようと志し、浅間の宮に参籠(さんろう)し、斉戒沐浴(さいかいもくよく)した。
ついに苦行の念願がかなって、野手村への分祀が実現した。旧暦六月一日夏の土用の最中であった。ところがそのとき、不思議なことに大雪が降って、野手村一帯は一面の銀世界となったということだ。
伝えるところによると、富士山の雪に乗って、浅間の本尊が野手村の地におりてきたのだろうという。この不思議な出来事は、人々の浅間大権現に対する信仰心をさらに深めていくものとなった。
長貴法印は、神仏の調和を求めてひたすら行を重ね、ついには今泉上というところで即身仏(そくしんぶつ)の荒行に入った。空気孔ともいえる竹筒が、外界との唯一の連絡口、生きたまま墓穴に入った長貴法印は、一心にお祈りを続けた。村人が毎日のように様子を見に行き、竹筒に耳をあて、長貴さまの無事を確かめていたがある日ついに穴の中からの鐘の音が絶えてしまった。
村人は涙ながらに、長貴さまが“即身仏”になったことを認め、藤の木でつくった長貴さま愛用のツエをそこに立てた。後年そのツエの先に芽が出て、やがて藤の大木に育っていった。人々はこれを“さかさ藤”と呼び、長貴さまをしのんだという。
野栄町史付録
◇長貴法印が即身仏となられた地/ 今泉上にある上人塚と碑文
(平成18年9月撮影)
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- 2019年2月22日
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