地区のなりたち
平成18年1月23日、旧八日市場市と旧野栄町が合併して匝瑳市が誕生しました。旧市町にあった12の地区ついては、そのままの形で名称が継承されました。ここでは、地区のなりたちや由来などを中心にその歴史を紹介します。
中央地区
広報ようかいちば 市史こぼれ話(平成17年11月号)
- 中央地区 [PDF形式/458.77KB]
匝瑳地区
広報ようかいちば 市史こぼれ話(平成17年8月号)
- 匝瑳地区 [PDF形式/158.16KB]
吉田地区
広報ようかいちば 市史こぼれ話(平成17年6月号)
- 吉田地区 [PDF形式/156.8KB]
飯高地区
広報ようかいちば 市史こぼれ話(平成17年5月号)
- 飯高地区 [PDF形式/107.78KB]
豊栄地区
広報ようかいちば 市史こぼれ話(平成17年10月号)
- 豊栄地区 [PDF形式/149.04KB]
豊和地区
広報ようかいちば 市史こぼれ話 (平成17年7月号)
- 豊和地区 [PDF形式/145.66KB]
椿海地区
広報ようかいちば 市史こぼれ話(平成17年2月号)
- 椿海地区 [PDF形式/194.97KB]
須賀地区
広報ようかいちば 市史こぼれ話(平成17年9月号)
- 須賀地区 [PDF形式/125.72KB]
平和地区
広報ようかいちば 市史こぼれ話(平成17年3月号)
- 平和地区 [PDF形式/194.95KB]
共興地区
広報ようかいちば 市史こぼれ話(平成17年4月号)
- 共興地区 [PDF形式/182.2KB]
野田地区
野栄町史(昭和60年2月1日発行)
・野手村の創設『野手村は現在の野田地区です。』
野手・今泉・新堀の三村を合併して野田村が設置された。関係諸村の総代および所轄戸長から、合併案に異議のない旨の答申が、明治21年(1888)10月17日なされた。
この三村は、戸長役場の所轄および学区を同一としているばかりでなく、いずれも農業を営んで大体、生活状態を同じくし、 さらに用水施設等も関係地域限りで共同関係をもつなど、合併に適当な状態にあった。
往古、この地方が野田郷と呼称されたという歴史上の所伝に因み、新村名を「野田(のだ)村」と称し、村役場を旧野手村に置いて、同22年7月、土屋平兵衛が初代村長に就任した。合併当時における新村の村勢は次の通りであった。
旧村名 |
野手村 |
今泉村 |
新堀村 |
計 |
---|---|---|---|---|
人口(人) |
2,357 |
1,236 |
488 |
4,081 |
戸数(戸) |
430 |
207 |
79 |
716 |
面積(町) |
520.65 |
230.09 |
68.81 |
819.55 |
国税(円) |
2,959 |
1,657 |
1,382 |
6,016 |
地方税(円) |
748 |
361 |
106 |
1,215 |
村費(円) |
550 |
291 |
85 |
926 |
村協議費(円) |
42 |
35 |
12 |
89 |
以下、村政の推移を概観してみたい。明治24年(1891)の戸数721戸、人口4,163人、厩70、船123であった。さらに人口をみると、大正9年(1920)は912世帯、4,537人、昭和29年1,095世帯、6,297人と増加している。
一方学校については、明治初期の野手村における作佐部正之助家塾を前身とし、明治10年に公立小学校が円長寺に、今泉村もまた吉祥寺に置かれている。明治20年(1887)両校は尋常小学校と改称、明治22年に合併して野田尋常小学校、児童総数200人となったが、校舎の建設はこれより10年余後の明治32年(野手13,630番地附近)であった。翌33年、高等科を併設して野田尋常高等小学校となり、大正6年(1917)における生徒数は647名となっている。尚、明治27年に開校したといわれる野手の中村佐平私塾は大正初期まで続き、子弟数6,000人を教えたといわれる。
明治26年2月14日、野手の字大根畑で大火により、家屋57棟、寺社3棟が焼失した。同32年(1899)、栢田から野手、さらに吉崎を経て銚子に至る街道(今の飯岡・片貝線)が県道となる。大正期(1912~25)、農家の副業として養蚕業が発達、桑畑は畑面積の約30%を占め、飼育戸数約500戸で、その掃立枚数は約3,000枚に及んだといわれる。
栄地区
野栄町史(昭和60年2月1日発行)
・栄村の創設(栄村は現在の栄地区です。)
栢田・川辺・堀川の三村を合併して栄村が設置された。関係諸村の総代および所轄戸長から、本案で支障ない旨の答申があったのは、明治21年(1888)10月17日である。
関係諸村は、戸長役場の所轄および学区ともに単一である上に、各村とも農漁業を生業として人情、風俗、生活の状態を同じくし、さらに用水施設の経営・使用につき関係地域のみにおいて共同の関係をもつなど、合併に適当な状態にあった。新村名は、新村の繁栄に対する村民の希念を表徴して「栄(さかい)村」と命名された。
村役場は旧堀川村に置かれ、同22年6月3日、及川七郎兵衛が初代村長に就任した。合併当時の新村の村勢は以下の通りである。
旧村名 |
栢田村 |
川辺村 |
堀川村 |
計 |
---|---|---|---|---|
人口(人) |
1,223 |
862 |
1,122 |
3,207 |
戸数(戸) |
231 |
169 |
198 |
598 |
面積(町) |
226.37 |
199.10 |
222.13 |
647.60 |
国税(円) |
1,353 |
1,138 |
2,555 |
5,046 |
地方税(円) |
349 |
266 |
364 |
979 |
村費(円) |
223 |
228 |
205 |
656 |
山林(町) |
0.01 |
0.03 |
0.09 |
0.13 |
以下、村政の推移を概観してみたい。明治24年(1891)の状況をみると、戸数609戸、人口3,313人、厩41、船30といわれる。さらに世帯数と人口をみると、大正9年(1920)666戸、3,343人、昭和29年786戸、4,596人と増加している。
また、学校については文久2年(1862)設立といわれる栢田の大木良輔家塾を前身とし、明治9年(1867)7月、東西栢田、堀川、川辺の四小学校区を連合して、堀川字御塚5,652番地に定め、御塚学校と称しており、生徒数は150名程であった。
明治33年(1900)、栄尋常高等小学校が開校、大正6年(1917)における生徒数470名となっている。大正11年と昭和16年に、大阪においてともに事業で成功した、戸部太三郎、及川健吾の両篤志家の寄附により、それぞれ校舎一棟4教室が増築されており後、この校舎は戸部校舎、及川校舎と呼ばれていた。
一方、大正期における家禽の飼育戸数は全戸数の70%を占め、養蚕につぐ収益をあげ、明治15年(1882)ごろから始められた落花生の栽培は増加傾向にあった。
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- 2019年4月8日
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