伝説の地(中央地区東本町) 

 戦国時代も、やっと終わりに近づいた天正十五年(1587)紀伊の商人、岡田屋惣兵衛が、海を渡ってこの地にやって来た。

 その頃、この地方は、紀州と非常に縁が深く、産業も、村々も、みんな紀州の人々によって拓かれた。

 八日市場(福岡)は、南条の荘、福岡郷と言われて、今の福岡台に村を拓いていた。横須賀のあたりには、大きな沼があり、まだまだ寂しい村であった。

 それに比べて、海辺街道は、魚がたくさん取れるので、大そうな賑わいようであったそうだ。毎年六月十二日に行われる野手の八坂神社のお祭りには、近くの村人たちも、おおぜい集まって来た。

 商売上手な惣兵衛どんは、このお祭りに目をつけ、市(いち)を開くことを思い立ち、月岡玄藩(つきおかげんば)という武士にお願いしたところ、

 「六月十二日から八日間だけ。但し、八坂神社の周囲をけがさぬこと」

という条件で、許しがでた。

 そこで、惣兵衛どんは、場所選びにずいぶん頭をひねったそうだ。よくよく考えた末、海辺の人々も、台地の人々も、集まりやすい大塚下(東本町八重垣神社の境内)に決めた。

 そこいらは、荒れるにまかせた砂洲(さす)で、葦竹(あしだけ)のうっそうと茂るところであった。惣兵衛どんは、葦竹を切り拓き、青屋の祠(ほこら)をつくった。その前の広場に、四隅に生竹の柱を立て、注連縄(しめなわ)を張りめぐらして、商売の神様を祀(まつ)った。

 「注連縄を張ったところで、若竹を燃やし、きよめをして、神様を迎える」

 とは言っても、商売上手な惣兵衛どんのこと、めずらしい行事をやれば、人集めになるだろうと考えていた。

 また、使いの者をまわりの村々に走らせて、神事や市のことをふれてまわったのである。六月十二日の夕方からは、火を梵(た)きあげて村の幸せ(家内安全、五穀豊饒、商売繁盛)を祈った。

 「リン、リン、リン」

 「駒が帰って来たぞー」

 鈴をつけ、村々にふれて歩いた駒が神社の前に集まるとき、お祭りも最高潮に達するのだ。

 みんなが、若竹を持って集まり、火の中に投げ入れる。飛び散る火の粉、いよいよ燃えさかる火、・・・・・・・・大変な騒ぎである。

 市も、たいそうな賑わいようで、年寄りも、若衆も、子供も、みんな思い思いの売り買いをして家路(いえじ)へ向かうのである。


  注・・・初め、駒は神の使いとして考えられていたが、やがて、神格化(しんかくか)されて神そのものとされた。

 後に、人が駒の代わりをするようになると、「駅使(えきし)をやると神様になれるぞ」、「体の弱い者がやれば丈夫になれる」、 「願いごとがある者がやれば成就(じょうじゅ)する」といったように、駅使になることは、大変名誉なことと言われて、希望する者が後を絶たなかったと言う。

 駅使は、白衣をまとい、白鉢巻をつけて唐草模様(からくさもよう)の布をかぶり、鈴をつけて、はねまわりながら、祭りを知らせて歩いたという。

 また、若竹を燃やす燎火(りょうか)をシテに分け、踊りながら、村々をきよめ歩いたとも伝えられる。

 駒の真似をしたところから、駒まねと言われている。


原話 そうさの伝説とむかし話、伊東公明編 


 

 

◇現在の駒まねは毎年7月25日に開催されている