野栄町史 (昭和60年2月1日発行)

 ・野手村の創設『野手村は現在の野田地区です。』

 野手・今泉・新堀の三村を合併して野田村が設置された。関係諸村の総代および所轄戸長から、合併案に異議のない旨の答申が、明治21年(1888)10月17日なされた。 

 この三村は、戸長役場の所轄および学区を同一としているばかりでなく、いずれも農業を営んで大体、生活状態を同じくし、 さらに用水施設等も関係地域限りで共同関係をもつなど、合併に適当な状態にあった。

 往古、この地方が野田郷と呼称されたという歴史上の所伝に因み、新村名を「野田(のだ)村」と称し、村役場を旧野手村に置いて、同22年7月、土屋平兵衛が初代村長に就任した。合併当時における新村の村勢は次の通りであった。

旧村名

野手村

今泉村

新堀村

  計   

人口(人)

2,357

1,236

488

4,081

戸数(戸)

430

207

79

716

面積(町)

520.65

230.09

68.81

819.55

国税(円)

2,959

1,657

1,382

6,016

地方税(円)

748

361

106

1,215

村費(円)

550

291

85

926

村協議費(円)

42

35

12

89

 以下、村政の推移を概観してみたい。明治24年(1891)の戸数721戸、人口4,163人、厩70、船123であった。さらに人口をみると、大正9年(1920)は912世帯、4,537人、昭和29年1,095世帯、6,297人と増加している。

 一方学校については、明治初期の野手村における作佐部正之助家塾を前身とし、明治10年に公立小学校が円長寺に、今泉村もまた吉祥寺に置かれている。明治20年(1887)両校は尋常小学校と改称、明治22年に合併して野田尋常小学校、児童総数200人となったが、校舎の建設はこれより10年余後の明治32年(野手13,630番地附近)であった。翌33年、高等科を併設して野田尋常高等小学校となり、大正6年(1917)における生徒数は647名となっている。尚、明治27年に開校したといわれる野手の中村佐平私塾は大正初期まで続き、子弟数6,000人を教えたといわれる。

 明治26年2月14日、野手の字大根畑で大火により、家屋57棟、寺社3棟が焼失した。同32年(1899)、栢田から野手、さらに吉崎を経て銚子に至る街道(今の飯岡・片貝線)が県道となる。大正期(1912~25)、農家の副業として養蚕業が発達、桑畑は畑面積の約30%を占め、飼育戸数約500戸で、その掃立枚数は約3,000枚に及んだといわれる。